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NHK BS歴史館より、「龍馬暗殺の黒幕」を新たな切り口でかんがえてみよう!
- 2011.07.15 Friday
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- by 司馬燦
JUGEMテーマ:テレビ全般

龍馬人気に陰りはまったくない。
TBSドラマ「仁」JINでも、龍馬が大活躍。そして
ここに来てまたしても、龍馬にかかわるTV番組が放映
された。
NHKのBS歴史館、 「真相!龍馬暗殺の謎」。
新たな証言をもとに、ふたたび実行犯をうかびあがらせる。
ただし、実行犯は通説どおり、京都見回り組。
証言でつかわれた資料とは、京都守護職公用方の手代木直右衛門が晩年に死の床で親族
に残したとされる書面である。
京都見回組の実質的な責任者だった手代木。
子孫にだけ残した話しだけに、信憑性が高いとおもわれる。手代木は、暗殺実行犯の中心人
物だった佐々木只三郎の実兄。今回、会津藩・公用人である手代木直右衛門の子孫が、は
じめてテレビ取材で語った。
売名行為や、子孫に残すだけの逸話という域、その意味でまったく虚でない!とは言い切れ
ないものの、かなり信憑性はあるとみられる。誇張はあるだろうが、大筋はまちがいない
だろう。
まずは、原文により、その証言をみてみよう。
手代木家私家版「手代木直右衛門(テシロギ・スグエモン)伝」(1923年)
『坂本龍馬が慶応三年十一月十五日に、京都河原町蛸薬師の醤油屋方に於て幕府の壮士
の刺殺されたることは史乗に詳なる所なるも、其の下手人の何者たるは今に及ぶまで明か
ならず。手代木翁死に先たつこと数日、人に語りて曰く坂本を殺したるは実弟只三郎なり、当
時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、深く幕府
の嫌忌を買ひたり、此時只三郎見廻組頭として在京せしが、某諸侯の命を受け、壮士二人を
率い、蛸薬師なる坂本の隠家を襲ひ之を斬殺したりと。蓋し某諸侯とは所司代桑名侯を指し
たるなり、桑名候は会津候の実弟なりしを以て、手代木氏は之が累を及ぼすを憚り、終生此
事を口にせざりしならん。前年静岡県の今井信郎なる人坂本を殺したるは自分なりとて、史談
会に於て其の顚を叙し、彼は佐々木只三郎に坂本殺害の相談を受け、同人及び渡辺吉太郎
なる人と同行したりといへり。是れ正に手代木翁の言に符号せり。』
ここに記された所司代桑名侯とは、桑名藩主・松平定敬(サダアキ)。所司が今でいう「長官」で、
その代理が所司代といわけだ。実質的な京都治安維持の責任者だった。松平定敬は美濃・
高須藩主・松平義建(ヨシタツ)の八男で、兄には尾張藩主・徳川慶勝、一橋家当主の一橋茂栄、
さらに会津藩主で京都守護職の松平容保(カタモリ)がいる。この近江屋事件とき、19歳だった。
(※番組では、容保となっていたが、、。)
佐々木只三郎は、鳥羽伏見で被弾。36歳の若さで亡くなるが、手代木は会津戦争の責任者
として一時投獄されるも、明治5年(1872)の特赦により赦免。この後、新政府官僚として出仕
し、香川県権参事や岡山県区長などを歴任し、78歳の天寿を全うしている。
さて、龍馬の暗殺にかかわった人物を分類してみよう。
つぎの三つにわけて考えることで、おおよその真相がつかめる。
ー孫堡
中心的な役割をはたした人物
1△脳霾鵑鯆鷆,靴深圈、黒幕
BS歴史館では、,狼都見回り組、∈粥耕畋三郎、
または、その主君である「松平」。
は、疑問符はつくものの、土佐藩の関係者とした。(後述)
龍馬への凶行がおきた当日、近江屋に投宿していること
を知っていたのは土佐藩のみ。
もともとは、材木商をいとなむ酢屋嘉兵衛方にいたのだが、10月頭から土佐藩御用達の近江
屋へうつさせていた。これは、土佐藩士・堀内慶助らの助言によるもので、龍馬の身を案じたゆ
えの転居だったのだ。いわば、身内だけがしる極秘事項。でなければ、龍馬や中岡慎太郎も
うかつに酒宴をひらいたりはしなしだろう。
龍馬は、凶行のあった数日前から風邪をこじらしていたようだ。近江屋店主の井口新助は土蔵
を改築して、龍馬にあてがっていた。万一の時は、裏手にある誓願寺境内に逃れられるよう
ハシゴまで用意していたという。
しかも出入りの者にさえ龍馬のことは知らせていない。
ところが、凶行のあった当日は、危険ともおもわれる部屋に龍馬みずからが居をうつしていた。
これは油断だったのだろうか。
たしかに警護もつけず、軍鶏で一杯やろうという算段である。
しかも、刀も傍におかず、ピストルさえも持たないし、十津川郷士の来訪にも、警戒感がまったく
みられない。
なぜ、そんなに悠々ととしいられたかだ。
ひとつ考えられるのは、近江屋のあった場所だ。
(地図参照:赤丸が近江屋の場所で、「土州」は土佐藩邸のこと)

川原町通りをへだてて向かいには土佐藩邸があり、北(左)にいけば長州藩邸もあるという所。
しかもこのエリアは、薩長の息のかかった商家や屋敷でしめられたいた。
幕府の密偵といえでも、うかつには探索はできない。
そんな一帯なのだ。
内部からの密告でもないかぎり、龍馬の情報はえられないともいえる。
新撰組では山崎烝(ススム)が、監察方として池田屋事件にも情報を提供したといわれている。
しかし、実際の池田屋事件では、隊を2手に分けて探索からしたのだ。
あれだけの浪士の集まりでも、見つけ出すことは容易ではなかった。
龍馬は、下僕を連れていたとはいえ、少人数である。
これでは、なおのこと難しいだろう。
ひとくちに京都といっても広いうえに、勤皇や長州びいきも多い。密偵として調査をすることは
意外とむずかしい。
劇では、薬売りにふんした山崎が後をつけて、探りだす。
しかし、薩長や勤皇の志士にも見張りはいるわけだから、そう楽な話しではないのだ。
とすれば、尚のこと情報をリークしたとしか考えられなくなる。では誰だろうか。
以前、黒幕を薩摩として記事を書いたことがある。
しかし、薩摩といえどもそれほど詳細な情報はもっていなかっただろう。
やはり、土佐内部からが一番うたがわしい。
ここで、
3つの条件を考えてみた。
[暁呂魴っていた人物。
⊆孫堡箸里箸気譴覽都見回組と関係のある人物。
N暁呂亡くなることで、一番得をした人物。
この3つを基に、再検討してもよう。
以下、次項にて。
龍馬を考えるうえで、侍とはなにか。これに一つの答えをあたえてくれる、そんな時代劇を紹介しよう!
- 2011.05.31 Tuesday
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- by 司馬燦
龍馬を考えるうえで、侍とはなにか。これに一つの答えをあたえてくれる、そんな時代劇を紹介しよう。1976年製作の映画・山本周五郎原作の「ひとごろし」。


監督は、大洲斉(オオズヒトシ)。大洲監督の代表作に、萬屋錦乃介の「竜馬がゆく」と、「木枯らし紋次郎」があげられるが、どうも大洲には一貫したサムライ像というものがあるようだ(後述)。
原作が小説だから、もちろんフィクションではある。しかも滑稽ともいえる展開。しかし、話しがすすむにつれ妙にひきこまれていった。
あらすじは、こうだ。
主人公は、越前藩において臆病では右にでるものがない!そんな不名誉な評判をたてられていた。双子六兵衛(フタゴロクベイ)という若侍。かれは飄々と生きている!周囲からそんな眼でみられていたのだが、内心では忸怩(ジクジ)たるものがあった。そこに事件はおきた。武芸指南役である仁藤昂軒(ニトウコウケン)と、これに敵意をいだいていた藩重役・加納平兵衛の一派との間で斬りあいがおきたのだ。加納は、殿のお気にいりの御側小姓だった。もとをといえば、昂軒は藩主に腕をみこまれ雇われた身、腕はたつが性格がかなり悪い。外からはいってきた新参者なのだから、周囲に敬意をはらい和をとりつくろうべきところだが、武芸一筋で生きてきた昂軒とんとお構いなしの粗暴な振舞いが招いた事件だった。酒場帰りの闇討ちにあった昂軒ではあったが、逆に加納らを切り殺す。そのうえ、藩に断りもなく、藩をとびだし江戸に向かってしまう。
藩内での刃傷沙汰。これだけでも罪はあるうえに、さらに脱藩という行為である。藩としても黙っているわけにはいかなかった。さっそく、「上意討ち」する者を募るも、名乗りでるものがいない。藩としてどうするか!重役会議をひらく。そこに自ら手をあげるものがでた。それが誰あろう、あの双子六兵衛だった。藩主の命をうけて、上意討ちの書状を懐に、仁藤を追って北国街道にあゆみでる。
剣の腕もなく、しかも臆病の六兵衛。片や、剣と槍の名手である昂軒。討ちをはたすために六兵衛がとったその行動はなんだったか。
じりじりと夏の陽が照りつける北国路を、昂軒をおう旅にでた六兵衛。隣国・加賀領にはいり、三日目には松任(マツトウ)という町の手前で、すぐ前を昂軒が悠々とあるく姿が眼にはいる。その途端、心臓は異常なほど高鳴り、しかも立っているのがやっとという有様になった。
「落ちつけ。まだ気づいてはいない。どんなに屈強な武芸者といえども、人にちがいないのだ。油断もするし隙だってみせるはず。そこを突けばいい。」
必死に自分にムチうつも、気持ちは萎えるばかり。そんな堂々巡りの考えをしながら歩いていると、後ろから呼びとめる声がする。
「ちょっと待て。お前は福井からきた追っ手じゃあないか。逃げも隠れもせぬから、さあかかって来い」。
六兵衛が振りかえると、そこにはなんと昂軒が立っている。
どう間違えたのか、追い越してしまったのだ。
震えが走り、失神寸前になりつつも、大声でさけんだ。
「ひっ ひとごろし〜!! だれか助けてくれ〜!!!」
悲鳴をあげながら猛烈な勢いで逃げだす六兵衛の姿があった。子供時分より剣術修行は大の苦手だった。しかしその分、逃げ足だけは人一倍速かったのだ。
茂みに逃げ隠れた六兵衛。
ふと気づくことがあった。それは、
自分の叫び声で、街道ににいた全ての人たちが昂軒におびえ逃げ出したことだ。「よしっ!この作戦でいくぞ」
それからは、距離をはかりつつ昂軒の後をつけながら、「ひとごろし〜っ!! その侍はヒトゴロシだぞ〜っ!!」と叫び続ける。
執拗にくいついて離れず、徹底してとったこの戦法。
都度、周囲の人が逃げまどうので、昂軒は宿に泊まれず飲食にも事欠くようになる。とうとう、空腹と睡眠不足におちいり疲労困憊になってしまう。
根負けした昂軒が、はなった一言は、
「俺は、江戸で腹をきるつもりでいた。もういい。
ここで腹を切ろう!俺の首をもって帰れ!」
精神的にも肉体的にも徹底して追いつめられ、性根つきた昂軒は切腹を決意した。
これに対して、六兵衛は
「この暑さでは、首(頭)は腐ってしまう。俺はただお前に勝ったというものを得られればいい。」
なんと、六兵衛は切腹をとめにはいったのだ。六兵衛は昂軒に、首の代わりに髻(モトドリ)を求めた。
そう、髻とは「髪を頭のうえに集めて束ねたところ」だ。
この場面で、「完」となる。
どうだろう。
腕がたつ剣豪は、いくらでもいる。
しかし、考えてみればその者のうえに、さらに屈強な者がいるはず。また、同じ使い手だとしたら、相打ちにもなる。けっきょく得するものはいない。
そう、勝たないことが、負けないことといえるだろう。
大洲監督が「竜馬がゆく」で描いてみせた龍馬像。
「木枯らし紋次郎」のなかで、つねに死をおそれ震える紋次郎。人間くささと同時に、清清しい気持ちにさせてくれる描きかたでもあった。
人間、本能としては死の恐れからは逃れることができない。
しかし、教育によって前頭葉にすりこまれた「士道」で対面をはかったということだろう。

早すぎた死で「伝説的存在」となった、松田優作が「太陽にほえろ!」の"ジーパン刑事"で注目を集めて以後の本格的な時代劇映画の主演作。松田優作の若々しくも激しく、かつユーモアな魅力が横溢する。対する武芸者には国際スターにして"霊界の広告塔"の丹波哲郎。さらに高橋洋子、五十嵐淳子の初々しい演技も魅力的だ。
【CAST】
松田優作
高橋洋子
五十嵐淳子
桑山正一
岸田森
丹波哲郎
【STAFF】
監督: 大洲 齊
脚本: 中村 努
撮影: 牧浦地志
美術: 西岡善信
照明: 美間 博
録音: 渡部芳丈
音楽: 渡辺宙明
原作者: 山本周五郎
NHK BS「新選組血風録」・第5回「池田屋異聞」 を視聴。事実と照らしてみた!
- 2011.05.03 Tuesday
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- by 司馬燦
JUGEMテーマ:日本のTVドラマ
司馬遼太郎著、『新選組血風録』
これは、15編からなる短編をまとめた著書で、1962年5月から半年間、
小説中央公論で発表したもの。
各編ごとに実在と架空のまじった様々な隊士が主人公とした。
そのうえで、ストーリそのものは、土方歳三と沖田総司にスポットをあてた
構成になっている。局長・近藤勇も、どの編でもかならず登場はするが、
土方・沖田に比べるとやや脇役的な描き方となっている。
それと、斎藤一と山崎烝も登場する場面が多いのも特徴のひとつ。」
NHK BS「新選組血風録」・第5回「池田屋異聞」
【BSプレミアム】2011年5月1日午後6時45分〜放送
http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/shinsengumi/html_shin_story05.html
⇒この回の概要は・・・
土方歳三(永井大)は、監察の山崎烝(ススム・加藤虎ノ介)に過激な尊攘派浪士
の動きをさぐらせ、古高俊太郎を捕縛。この古高への拷問により、ついに京の町に
火を放ち天皇を連れ去ろうとする長州勢の計略を知ることになる。
だが、浪士たちがその計画をねると思われた密談の場所が突きとめられずに
しびれを切らした土方は、一隊を率いて町に飛び出した。
その後すぐお美代(前田亜季)が屯所に現れて、浪士たちが池田屋にいる
と知らせる。近藤勇(宅間孝行)はわずかな手勢を連れて池田屋に斬り込んだ・・・。
さて、ここからが事実と照らした「私の見方」である。
古高へは、すさまじい拷問があったという。
これは、たぶん事実にちかいと思われる。
「血風録」では、その結果として尊攘派浪士の戦慄する
ような計画を知るにおよぶとした。
つまり、京の町を火を海にするという、そんな目論見が
あったとしたのだ。
しかし、ここに疑いの眼をむけてみた。
古高の証言を、新撰組が主張するとおりにそのまま
信じてしまっていいのか!ということだ。
これはかなり怪しいと思っていいだろう。
拷問、これ自体は事実とおもわれる。
だが、吊るし釣りにされ、さんざんの痛めつけ。
これで白状したというのはちょっとありえないとみた。
古高俊太郎は、儒学者・梅田雲浜(ウメダウンピン)の門弟。
その雲浜も、安政の大獄ふたりめの逮捕者で、
さんざ拷問をうけたが、最後まで口をわらなかった。
その愛弟子が、古高だ。
だとすれば、いくらなんでも、そんな馬鹿な証言はしない
しないだろう!
自白するとしても、適当な理由をつけるはずだ。
しかも、この古高。
捕まってから、わずか1ヶ月半で斬首されているのだ。
つまり、禁門の変で生じた、火災。
この大火で、獄舎が延焼し、それに乗じて逃亡することを
おそれた役人が、ほかの囚人ともども切り殺したため
だった。
とはいえ、古高の口が封じられたとすれば、
真相の解明は、完全に不可能なった。
たしかに、池田屋事件の後に、「禁門の変」がおきた。
周知のとおり、この企ては失敗におわる。
敗走する長州勢。
逃走に際して、みずからの館・長州藩屋敷に火をはなった。
これが、風にあおられ、京の町を
燃えつくした。
おおよそ2万7千世帯を焼失したという。
人口でいえば、14〜15万人である。
幕末当時、京の人口が60万人前後として、
4人に一人が焼きだされた格好だ。
まさに、とんでもない行為をした長州藩。
これが、ある意味で、新撰組に大義名分をあたえたうえに、
池田屋事件の成り行きを、新撰組の主張どおりと
したとみて間違いないだろう。
確かに、火をはなった。
しかしそれは敗戦の結果だったということだ。
この池田屋事件。
龍馬との関係でいえば、この池田屋の現場に亀弥太が
いたこと。
http://45ryouma.jugem.jp/?eid=45
そう、亀弥太とは、望月亀弥太のこと。
亀弥太は、池田屋から逃走する途中で自刀ではてた。
勝の神戸海軍塾は、この煽りをくらって閉鎖においこまれ
ている。
そして、流浪の素浪人となった龍馬ら土佐人は、
勝の斡旋により、長崎で薩摩の庇護をうけることに。
これが、亀山社中となり、
龍馬らは、あらたな地で活躍する流れをつくった。
もし坂本龍馬がドラッカーの『マネジメント』を読んだら!
- 2011.04.30 Saturday
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- 17:30
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- by 司馬燦
JUGEMテーマ:マネジメント
これは、どだい無理な話しだろう。
そもそも龍馬という人物は、あまり書物など読まないからだ。
龍馬は耳学問を得意としていた。
じっと机のまえで、書物をむさぼり読む。
そんな姿は、ちょっと想像できなだろう。
では、どう設定すればいいか。
師匠である勝(海舟)や佐久間象山あたりに
『マネジメント』って、どうなんでしょうか?
と聞きだす。
そんな場面を想像することは可能だろう。
そう、龍馬の師匠だった、海舟と象山。
かれらは、当代一の観察眼を有していた。
つまり、マーケッティングの達人ということだ。
これからの学問は、蘭学から英語。
さらに砲術や海軍術。
これらに秀でることが、世にでる機会をもつ。
そう見たであろう。
そして、それを着実に実践した。
かれらは、平時であれば、けっして出世の望めない身分。
しかし、まんまと要職に就いた。
興味深いことに、ふたりとも国防論・海防論をかき、
いっきに、その地位についた人物だった。
違いは、目立つことが好きか嫌いか!くらいだろう。
象山は、奇抜な井手達であったことが災いし
若くして命をおとした。
片や、海舟は一度問題がおこれば、じっとして
いることが平気だった。
龍馬も際立ちすぎが、寿命をちぢめたことは否めない。
さて、龍馬がドラッカーを学んだとしたら
どうなっただろうか。
この1年間、龍馬についてのさまざまな文献をよんで
みて感じたのは、龍馬みずからが意図して
何かを成し遂げたということは無かったということだ。
すべてが成り行きだった。
ただし、龍馬が人一倍勝っていたことがある。
それは、固定観念をもたないこと。
だから、
武市と行動を共にしながらも、幕臣である勝の弟子と
なることができる。
長州ともパイプをもち、
その宿敵である薩摩にも、自分の身をあずけた。
龍馬にとって、
攘夷論や、開国論など、どうでもよかった。
日本を中国のような欧米(英国)の属国にしてはいけない。
その思いが、中心だったといえよう。
そう、
生まれながらにして、イノベーション的な気質をもっていた
のだ。普通、われわれ凡人には、これが無い。
かならず、どこかに偏見をもっている。
つまり、固定観念というやつだ。
なまじ、学問や高等教育をうけると、これが酷くなる。
イノベーションは、まず先入見、思い込みを
脱ぎさるところから始まる。
そして、誰からの意見もとりいれ、
教えてくれた人物を、自分の仲間としてしまう。
そんな途方もない能力。
これがまず必要だということだ。
では、結論として、龍馬が『マネジメント』を知ったら
どうなったか、、。
きっと、このように思ったのではないか?
なんだ、いつも俺のやっていることじゃないか!
的確な観察眼をもった師匠。
勝先生から、マーケティングの生の知識をえて、
自分は行動に徹してきた。
誰とでも意見をかわして、しかも
自分の仲間にいれてきた。
それが、俺の生き方。
それが、きっと社会を変えるイノベーションを
生んだんだろうな。
そんな感じだろうか。
龍馬の時代におきた「大震災」と疫病。そこから言えることは!
- 2011.04.23 Saturday
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- by 司馬燦
龍馬の時代にも巨大地震があった。

安政の大地震である。
このとき、龍馬は20歳。
江戸への修行で、土佐と江戸を行き来していたとき。
たぶん、直接間接はわからないが、
なんらかの影響はうけたと思われる。
さて、一口に安政地震とは言うものの、実は三つの地震
があったのだ。
東海と南海、そして江戸でおきた。
しかし、もっと詳しくみると、さらにマグニチュード7前後の
ものが、四つもおきていた。
まさに、当時の日本。
政治のもならず、地殻においても「激震」がおきていたのだ。
【安政の三大地震】
・安政東海地震(M8.4):1854年12月23日(安政元年11月4日)
・安政南海地震(M8.4):上記に32時間おくれで起きた。
・安政江戸地震(M7.0):1855年11月11日(安政2年10月2日)
→直下型地震
【M7前後の安政地震】
・豊予海峡地震(M7.4):安政南海地震の2日後
・伊賀上野地震(M7.4):1854年7月9日(安政元年6月15日)
・飛騨地震(M6.8):1855年3月18日(安政2年2月1日)
・飛越地震(M6.7):1858年4月9日(安政5年2月26日)

さすがに、これだけ多くの地震が発生したことを考えると
東海・南海地震に誘発されたとみて、間違いないだろう。
この地震が、幕末当時に多大の影響をあたえたことは
否めない事実。
政治のうえでも、激震がおき、人々を震撼させていた。
地震がおきる直前、ペリーが再び日本やってきて、そのとき
あの不平等条約をむすんだのだ。
これが、安政元年の3月。
そして、翌月に、京都で大火事がおきた。
つづいての「東海・南海地震」である。
幕府が馬鹿なことをするから、天変地異がおきる!
そんな風にも、みえてくるではないか。
また、国政を担うべき幕府重臣。
かれらは、国をあげて復興をする意欲をみせたのか。
ここに疑問がのこる。
いまの菅民主党への思いのように
幕府にたいする憤懣は、日本中に渦巻いただろう。
なぜなら、これを老中は、力で押さえこむ
動きにでたのだ。
そう、井伊直弼による「安政の大獄」。
まさに、天災がもたらした社会の激動ともみえてる。
この「安政の大獄」と時をおなじくして、
江戸では、コロリが大流行した。
コロリとは、コレラのこと。
コレラは、コレラ菌を病原体とする感染症の一つである。
排泄物で汚染された飲料水や、食品を介して口から人の
体の中に入りこむ。
すると、5時間から3日ほどで、猛烈な下痢と
嘔吐を繰り返すようになる。
通常は、発熱や腹痛はないのだが、
極度の脱水症状をおこし、死にいたる。
致死率は、75%におよぶとされる怖い病気だった。
じつは、このときの日本でコレラは、2度目の大流行だった
のだ。
一度目は、文政2年(1822年)。
このときは、箱根の山はこえなかった。つまり、江戸は無傷
だったわけである。
しかし、安政5年(1858年)には、江戸にはいった。
そして、それから3年間で、江戸だけで3万人が亡くなった
という。(一説には10万人)
この1年をおいて、
さらに、文久2年(1862年)からも発生した。
これも数年間つづき、さらに猛威をふるい、人を殺して
いった。
地震で、数千数万の人が死に、さらに疫病で
数万の人々が死ぬ。
まさに、「この世の終わり」ともいえるだろう。
怖い事をあらわすのに、「地震・雷・火事・オヤジ」
という言葉がある。
オヤジは親父ではなく、「おおやまじ(大山事)」だという。
つまり、「台風」のこととされている。
しかし、わたしは、もうひとつの説をあげておこう。
つまり、
「多病事(おおやみじ)」という見方だ。
これが「おやじ」に転じたとするのは
どうだろうか。
今回東日本で発生した大震災。
M9は、たぶん日本では過去最大なのだろう。
とすると、過去の事例をみても今後
どんな誘発地震が生じてもおかしくないことになる。
政府は、迅速な復興策をだすと同時に、
つぎの早急な「大地震への備え」も打ち出すべきと
いえるのではないか。
また、江戸当時は、コロリの疫病だったが、
今回は、原発事故による大量の放射性物質の拡散だ。
これは、
今後どのような健康被害をおよぼすのか。
これが、ほんとうの
日本人の多病事にならねばいいのだが、、、。
心配の種は絶えないのは、私だけではないはずだが
どうなんだろうか。
今月(2011年4月)から始まった「幕末ドラマ」2作品について!
- 2011.04.19 Tuesday
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- by 司馬燦
今年の四月は、幕末が忙しい。
そう、ドラマの世界。
NHK・BSプレミアムの『新選組血風録』
そして、待望の幕末医療ドラマ「JIN - 仁」である。
同じ幕末をあつかったドラマとはいえ、
まったく違った切り口。
幕末ファンにとっては、まあどちらも見逃すのは
おしいのではないだろうか。
おなじ日曜の放映。
「新撰組・・・」の原作は、司馬遼太郎である。
片や、「JIN-仁」は、漫画家の村上ともか。
この2作、興味深いことに共通点がある。
史実を、拡大解釈したところだ。
司馬は、あえてこの作品を、大衆小説として世にだした。
ドラマの脚本も、
それに合ったかたちで、土方や沖田らの人物像を中心に
描いている。
一方「JIN - 仁」では、タイムトリップという荒唐無稽の設定で、
さまざまな史実を書きかえていく。
もし、この時代に○○があったならば、
どう時代は動いたか!そこが注目をあびる内容に
つながったようだ。
事実の意図的なネジ曲げ。
しかし、こと医療に関していえば、手法や器具の細部に
わたり、医学的な監修をうけている。
その意味では、興味は尽きない。
まあ、ドラマにおける幕末と、医療との合体。
良いとこどりのドラマともいえるだろう。
さすが、TBS開局60周年の冠ドラマだけはある。
新撰組は、先行して3日にスタートをきったので、
先日の放送では、
すでにもう芹沢鴨が切られてしまった。
それも、土方歳三との一騎打ちのかたちで、、、。
土方演じる永井大(マサル)。
初の主演なのだろうか。ちょっと緊張が画面にあふれ、
そのことが気にはなるが、ドラマ全体としては
なかなかの出来とみた。
仁の主役は、大沢たかお。こちらも、主役よりも脇役が
より光っている。
龍馬役の内野聖陽(マサアキ)。演技はすばらしい。
内野の代表作にいれてもいいんじゃないだろうか。
随所で大風呂敷をひろげる龍馬。
これが、南方仁との対称になるかたちで妙になじむ。
内野の迫真の演技で、日本人の龍馬熱に
いっそうの拍車がかかるのではないか。
龍馬に米国事情をつたえた「ジョン万次郎」。万次郎の足跡と、伝えた英語とは、
- 2011.03.06 Sunday
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- 15:59
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- by 司馬燦
2011年の今年。最近とくに話題になっていることがある。
それは、小学校での英語教育だ。
日本人の英語力の低さ、これは世界でも最悪といわれて
いる。いよいよ文部科学省も、この課題に眼をむけはじめ
たということなのだろうか。
これで本当に英語力が向上すればいいのだが。
さて、日本人にとっての英語。
その基となった人物がいる。
それが、ジョン・マン(John Mung)こと、ジョン万次郎だ。
ジョン万次郎が残した言葉がある
「ほったいもいじるな」。
万次郎は紹介した「掘った芋、いじるな!」、
これは、かなり以前から知っていた。
しかし、どうしてこれが通じる英語なのか!
最近まで理解できないでいた。
→文末で解説!
しかし、これが分かっていれば、
日本人の英語力は飛躍的に伸びたと考えると、
残念で仕方がないと考えるのだが。
ともかく、もう一度、万次郎に立ち返るべきではなかろう
か!
万次郎は、文政10年(1827)、土佐国中濱村でうまれた。
龍馬が生まれる9年前のことだ。
しかし、9歳で漁師の父を亡くしている。
まあ、貧しかったのであろう。
船頭の伝蔵(筆之丞)五右衛門に預けられた。
14歳になった万次郎は、
天保12年(1841)1月に四人の仲間と、延縄(ハエナワ)漁に
でるも遭難してしまう。
無人島にながされるが、運良くアメリカ船籍の捕鯨船
・ジョンハウランド(John Howland)号に助けられた。
そして、ハワイ・ホノルルまで連れて行かれる。
4名は下船するも、万次郎はそのまま船旅をつづけた。
そして、マサチユーセッツ州ニューベッドフォードにあった
船長のウイリアム・ホイットフイールド(WillamH.Whitfeld)
の家に厄介になる。
この地で、万次郎は船長夫妻にたいへん可愛がられた。
養子にしたうえで、高等教育をうけさせたのだ。
まずは、家のちかくにあった「オックスフォード・スクール」。
この学校は全学年が一クラスでまなぶ小規模なものだっ
たが、小学生といっしょに基礎となる英語を学んでいる。
さらに、公立プリストル第14区校に移り、船長の農場を
手伝いながらも卒業。
バーレット・アカデミーでは、高等数学、航海術、測量術、
捕鯨術を学び、本格的な英語教育も受けたという。
そして、捕鯨に必要とされた樽屋にも年季奉公として、
入って学んだ。
成人した万次郎は、そのまま、米国で捕鯨船で働きはじ
めた。数年間は捕鯨船員としての生活をおくったようだが、
ある日、突如帰国することを決意する。
ときは幕末だった。
当時の日本では、英語の翻訳は通詞があたっていたが、
世襲によるもので、たいへん頼りのないものだった。
万次郎の生きた英語は、当時の日本人にとって
必要不可欠なものだったようだ。
坂本龍馬の師匠である勝海舟。
勝にとって咸臨丸での米国初航海において、万次郎は
もっとも頼れる人物だった。
また、万次郎の話しきいて書物、漂巽紀畧(ヒョウソンリャッキ)を
著した河田小龍。
龍馬は、この小龍と勝から、アメリカの知識をさずけられた。
いわば、間接的ではあるが、龍馬にとって万次郎の存在
は大きかったものといえよう。
万次郎は、時代の流れにより、
さまざまな役職につくも、都度放免(解任)される。
まさに、時代に翻弄されつづけた。
維新後、開成学校(東京大学の前身)の教授。そして、
明治3年には欧州視察にもいっている。
明治31年(1898)、72歳となった万次郎は、波乱万丈な
生涯をとじた。
【万次郎が伝えた英語】
(ここから先は別ブログで掲載したものを一部加筆したもの)
最近、理由が解けたのだ。
これは、リエゾンさえ分かればむずかしくない。
解説しよう。
掘った芋、いじるな!これは「 What time is it now? 」
のことで、
中学レベルの英語力で発音してみると、
「ワッツ タイム イズ イット ナウ 」となる。
一語一語みると、
まずは、「 what 」の発音記号は、[(h)wάt, (h)wˈʌt|wˈɔt]。
これをみると「ワッツ」だが、後ろのT。
これは、会話では聞き取れないくれい微細な音。
よって、無視していい。
で、よく見ると (h)の記号がある。
やっぱり、Hを中心に考えるべきだろう。
ということで、「ホッ」これがいいようだ。
つぎの「 time 」。
これは、日本人の発音では「タイム」のこと。
発音記号は、[tάɪm]です。つまり、後ろのMは
鼻からだすだけの音だ。
さらに 「 is it 」。
ここで、リエゾンがでてくる。
さらに、Tの発音。これは Lに変化。
そこで、
「イズ イット」が、「イジル」となる。
最後の単語「 now 」。
「ナウ」ですが、Wはほとんど聞きとれないほど
小さな音で発音するから、「ナ」で通じる。
結局、
「ホッタイモイジルナ」となるわけだ。
これは通じる英語といわれている。
日本人にいち早く英語をつたえた万次郎。
しかし、せっかく教えたものがまったく活かされなかった
ことは損失だったといえよう。
あの原爆ドームを建てた、建築家「ヤン・レツル」について、彼の足跡を紹介しよう!
- 2011.02.22 Tuesday
- -
- 14:39
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- by 司馬燦

在りし日のヤン・レツル氏。日本文化に慣れしたしんでいたので
あろうか。
妻に「ヤン・レツル」って知ってる!と尋ねたら、


「えっ、やくみつる???」との答え。
建築家だよ。
あの原爆ドームを造った人物!
妻「でも、はじめから原爆ドームなんて名前じゃなかっ
たよね」という。
いい質問ですねーと、褒めておいた。
「そう、広島県産業奨励館(開館当初は、広島県物
産陳列館)て言ったんだ!」
最近、BS・地デジでやたら「街歩き」の番組がおおい。
高画質のため、なぜか見とれてしまう。
どれも、なかなか良質な企画だ。
こういう番組、そうとう脳が刺激されるようで、
この関係の本を読むようになったのはご一興である。
そんな経緯により、
「空想散歩」のなかで「ヤン・レツル(Jan Letzel)」
に出会った。
ヤン・レツルは1880年チェコのナホトに生まれる。
1907年に来日し、銀座出雲町に建築事務所をひらく。
この事務所で手掛けたものが、芝・白金の聖心女
子学院校舎と修道院(1909年レツルが設計・施工)
だった。このほか、麹町の「雙葉女学院」、小石川の
「ルドルの洞窟」、大手町の「大日本衛生会館」、
松島パークホテル、築地
精養軒などを設計している。
日本に来て5年後の明治45年に、事務所を丸の内
八重洲口の三菱館に移転。仕事は順調だったようだ。
翌年の7月に大きな話しが舞いこむ。
それが、原爆ドームとなった「広島県物産陳列館」
の建設依頼。
ではなぜ、この仕事がきたか!だ。
それは、当時の広島県知事だった「寺田祐之(テラダ
スケユキ)によるところが大きい。
寺田は長野出身の内務官僚だったが、各地の知事
を歴任した。この広島へ赴任するまえは、宮城知事
だったのだ。
宮城の地で、松島のランドマークとなった建築物を
みたことで思い立ったという。
それが、先ほどふれた「松島パークホテル」である。
「広島県物産陳列館」は、新旧混合の建物といえる。
つまり、それは「ネオバロック」骨格で、なおかつ
新芸術運動・ゼツェシオン風の細部装飾をもつ混成
様式の建物だった。
レツルは、美術学校で学んだだけでなく、「芸術は
必要にのみ従う」とした建築家・オットー・ワーグ
ナー(Otto Wagner)に師事した人物である。
彼のかかわった全ての建築物は、周囲の文化との
調和をみごとに生みだした。
この後、レツルは麹町紀尾井町の上智大学を建設
する。開校は、大正二年(1913)5月31日だった。
しかし、翌年の大正三年(1914)に始まった世界大
戦による不況の影響で、建築業界も徐々に景気が
おちこみ、大正四年、レツルは事務所を閉鎖する
ことになる。
けっきょく、大正五年レツルは帰国の途についた。
このとき、レツル35歳。
この後、本国にもどったレツルが、どのような生活
をしていたかは不明である。しかし、その10年後に
心臓病でプラハにて45の若さで死去したところを
みると、故国でも順調ではなかったのではないかと、
思われれる。※
だが、我が日本において、多くの師弟をそだて、数々
の建築物をのこしたその功績はけっして忘れては
ならない。つくづくそう感じた「読書散歩」であった。
※チェコのプラハにある、「通産省」の建物。これ、
レツル氏が設計したものでした。
原爆ドームと瓜二つといえる建物ですね。
故国でも、名を残していました。失礼しました。

ヤン・ヤツル氏

聖心女学院の正門。日本古来の伝統と、西洋文化を混合により
独特の雰囲気を醸しだしている。 ヤツル氏設計によるもの。

1930年ころの「広島県物産陳列館」のすがた!
龍馬が身につけていた剣術。これは「古武術」全般だった!
- 2011.02.15 Tuesday
- -
- 13:15
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- by 司馬燦
いま剣術というと、どうしても『剣道』を思いうかべる。

学校の部活や、社会人の団体などでおこなわれ
ている、全日本剣道連盟の競技。
しかし、幕末当時の剣術はまったく違ったものだった。
じっさい、「剣道」という言葉は、それ以前からあった。
このばあい、競技種目としてのそれではない。
あくまで、武術のひとつという位置づけである。
武士というと、すぐに剣術に眼がいく。
しかし、実戦では剣だけに頼るわけにはいかない。
ありとあらゆる力で相手を組み伏せる力が必要ということだ。
龍馬の遺品として、唯一のこっている武術の資料。
それは、北辰一刀流の目録。
しかしこの目録、いわゆる普通の刀のものではない。
つまり、短刀ではないのだ。
『北辰一刀流長刀兵法目録』の文字でも分かるとおり、
「薙刀」(ナギナタ)だった。
ナギナタというと、なんだか女子のもの、そんな
イメージがあろう。
だが、これも男の立派な武術のひとつだった。
さて、龍馬の古武術を物語る、こんな逸話も残っている。
それは、銚子出身の幕臣にして、直心影流の使い手
にして、槍の名手だった「信太歌之助」との組み打ち。
当時、龍馬は28歳で神戸海軍塾(海舟の私塾)にいた。
このとき京都二条で、柔術道場をひらいていたのが、
信太歌之助。
当然のながれで、お手合わせということになる。
龍馬も相当な自信があったのだろう。
「手抜きなしでやりましょう」とまで、申しでる。
ここから、歌之助の話し。
『「なかなかの力量!」とみた。
取り組みあっていると、床板(根太板)をふみぬき、
縁の下に、ころげおちる。
すぐに馬鹿ちからで、龍馬の襟をしめつけた。
これでもか、これでもか!と力をいれるが、
参ったとは言わない。
周りから、オチたのではないか!の声。
引き起こしてみると、たしかに気絶している。
そこで活をいれると、
息を吹きかえした。
しかし、坂本は起きるなり、「もう一番!」という。
さっそく、また組みなおす。
ところが、小刻みに動きまわっていると、
どうしたわけか、気がつくと、
部屋の端にあった畳二十枚ほど積み重ねてあった
うえにあがっていた。
そこで、また坂本の襟を締める。
さらに力にまかせて締めつけた。
弟子からオチたのでは!の注意。
また、気絶していた。そこで、活をいれる。
息をふきかえした坂本。
あきれたが、さらに一番という。
今度は、坂本は跳ねながらの組み合わせ。
しかし、度がすぎたが、羽目板をつきやぶった。
そのまま、庭先の四斗樽のうえにころがる。
水があふれ辺り一面、水浸し。
なおも、泥まみれになりながらの組み合い。
ここで、また坂本の首を力一杯しめる。
すると、またオチた。
活でめざめた坂本。
さらに大声で「一番っ!」という。
そんじょそこらにいない、実にえらく元気な男だった。』
龍馬の負けずきらいな一面。
そして、一途な性格があらわれた話しといえるだろう。
まさに胆力こそが、
龍馬の真骨頂でもあったようだ。
ちなみに、
前述の信太歌之助は、戊辰戦争では幕臣として地元房総
の地で、最後まで戦った勇士だった。
万が一、江戸無血開城が頓挫したばあい、
勝(海舟)は、信太歌之助らの幕臣に房総の漁師をあつめ
させ、江戸の住民を避難させるべく策をとっていたという。
信太歌之助は、直心影流では一目おかれた存在だった。
その歌之助の弁がある。
「稽古の基本は、棒振りである。100万本振ると不可思
議な力を得る!」と言ったという。
たしか若き海舟も、寺の境内での棒振りはかかさな
かった。
ちなみに、この棒は2貫、つまり7.5kgほどあったようだ。

龍馬をとおして江戸の街を散歩してみよう! 古写真でたどる江戸の街並み
- 2011.02.12 Saturday
- -
- 15:57
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- by 司馬燦
19歳となった龍馬は、人生初の旅で驚愕する。



江戸の街並みをみたのだ。
土佐とは、まるで違った世界。
まず何もかもが、桁外れにおおきい。
城にしろ、藩邸にしろ、濠(ホリ)にしろ並外れている。
寄宿先は、築地にあった「土佐中屋敷」。
現代のイメージでいえば、高校ぐらいの広さはあろう。
荷をほどいた場所は、せいぜい6畳の間。
ここに数名で暮らすことになる。
剣術修行先は、この中屋敷から近いところにあった。
北辰一刀流の千葉定吉(サダヨシ)、その道場である。
歩いて、せいぜい7分くらいの桶町にあった。
門をたたき、出てきた門弟にとりつぎを依頼。
話した相手は、周作の長男・千葉重太郎。
定吉は、あの千葉周作の弟にあたる。
このとき、50半ばを過ぎていたが、
鳥取藩から江戸藩邸での剣術師範の招聘におうじ
ほとんど道場へは顔をださなくなっていた。
重太郎はこのとき31歳。
20歳そこそこの龍馬にとっては、オジさんとみえたはず。
しかし、この田舎の気さくな青年に重太郎は
すぐに打ちとけた仲になる。
それもそのはず、龍馬にとって実の兄・権平とは親子
ほどの年の差。
年長者の扱いは慣れたものだったからだ。
龍馬が足をふみいれた「江戸の市内」。
暫くたつと「てんやわんや」の状況になった。
江戸湾にペリー率いる艦隊が姿をあらわしたのだ。
そう、黒船の来航。
まさに、龍馬が江戸にきてから僅か3ヶ月での出来事
だった。
江戸時代の古写真で、
龍馬がみたであろう江戸の風景を辿ってみよう。

江戸でもっとも古い橋とされる、「常盤橋」をうつした写真。家康の入府直後の1590年に
造られた。奥にみえるのが、「常盤橋門」。こちらは、寛永6年(1629)に築造された。
今ある常盤橋は、明治になって架けられたもの。江戸時代は木製の橋だった。
もとは江戸の初め、大手の濠と旧平川とをむすぶ道三堀に架けられ「大橋」と
呼ばれていたが、大橋ではどの橋かわからない。そこで、「常盤橋」の名をつけた
という。

江戸の大名屋敷群。巨大な建築物で、街は覆われていた。
江戸の各藩・藩邸は、上屋敷・中屋敷・下屋敷があった。龍馬が住んでいたのは「中屋敷」。
上屋敷は、藩主本人や家族、そして政務にかかわる重役などの人たち。中屋敷には、使用
人や下級の武士が暮らした。庭園など広大な敷地があったのが、下屋敷。この下屋敷は
蔵屋敷と同じく貯蔵庫の機能もあったようだ。代表的な下屋敷は、「六義園」や「明治神宮」
「新宿御苑」など。それぞれ、郡山藩柳沢家、彦根藩伊井家、高遠藩内藤家の下屋敷だ
った。

江戸は、大名小路(いまの丸の内)にあった、熊本藩の上屋敷。中屋敷も造りはそんなに
違いはない。 龍馬もおそらくは、江戸にいた時分、こんな屋敷を出入りして、道場に通った
のであろう。
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